銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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やらない奴は置いていく

 俺は中学受験をして、都立の中高一貫校に進学した。

 そもそも受験をするつもりはなかったのだが、四年生ぐらいから仲の良い友達らを遊びに誘っても「塾があるから」と言って断られることが増えた。六年生になると本当に誰も遊んでくれなくなったので、母親に「俺も受験したい」と頼んだ。

 結局、暇だったのだ。それか、「塾だから」と遊びを断る友達がかっこよくて、羨ましかったのか。今は思い出せないがとにかく、六年生になってから中学受験を決めた。

 母親はまず中学受験塾に俺を連れて行って、「今からでも受験って間に合いますか?」と聞いた。すると塾講師は「私立は理科、社会の知識問題があるので難しい。でも都立なら適性検査(作文と謎解きみたいなものだ)だからいけるかもしれない」のようなことを言った。でも都立は倍率が10倍くらいあるらしい。

 俺は、まあよくわかりませんが、なんだって任せてくださいよ、と思っていた。

 そして俺はその時から都立受験の塾に通い出した。塾の教室は既にコミュニティができており、和気藹々とした雰囲気だった。そんな時期から入塾するやつは珍しく、周りから奇異の目で見られていた(ように感じた)。俺は休憩時間も、確か『僕らの七日間戦争』だったと思うが、一人で本を読んでいた。俺は一言も連中と言葉を交わさなかった。女の子が一人「何読んでるの?」と話しかけてきたが、俺は何も言わずに本の表紙を見せただけだった。何と嫌なやつだろうか。

 余談だが、その女の子と俺は同じ中学に合格し、何故か付き合うことになる。

 とにかくその時から俺はやると決めたらやる男だったから、受験勉強に没頭した。母親曰く、俺に「塾で友達はできた?」と聞いたら「全員敵だから」と答えたらしい。未だにその話で母親にいじられる。息子をいじるなよ。

 

 ここまではイントロである。本題はここから。信じられるか?

 

 もちろん塾には作文の授業もある。その時のテーマは「あなたが尊敬する人」だった。俺は小学校五年生の時に担任だった関口先生のことを書いた。関口先生は突然その小学校に赴任してきた、若い女性の先生だった。彼女はいつもスラッとしたグレーのスーツを着て、髪は茶色のロング、顔は濃く、アイラインがグッと迫力を出していた。三年生までのおばさんの担任とは違って関口先生は厳しかった。「ごくせん」みたいだなと思ったのを覚えている。

 先生は「仮説実験授業」という全く新しい授業のスタイルを、その江戸川区立の小学校に導入した。例えば、前提として「水の三態」、固体、液体、気体というものを説明して、「じゃあ湯気はどの状態か?」という問題を提示する。それぞれ自分が思うものに手を挙げて、討論する。討論の過程で時々先生が補足知識を出して、最後にもう一度全員の意見を聞くという授業だった。

 その授業スタイルは画期的で、俺にとっては楽しかった。それに知識を定着させる効果もあったと思う。

 俺はその先生のことを「尊敬する人」の作文に書いた。だが、俺が本当に先生を尊敬していたのはその授業スタイルではなく、そのポリシーだった。先生は、「わからない奴にはわかるまで先生がとことん教える。でもやらない奴は置いていく。」と明言したのだ。見たことないけど、ドラゴン桜みたいではないか。俺はそれがとにかく新鮮で、感動した。常々俺も「やる気のないやつに合わせなきゃいけない意味がわからない」と思っていたのだ。

 まあ今思えば、小学校なんてまだ人格形成の過程だから、諦めるのは少し早いような気がするが、今でもその考え方には概ね同意している。やらない奴は置いていく。

 

 だから俺は先生のそこが尊敬できます、と作文に書いた。先生はできない人には優しく教えるけど、やらない人は置いていくので、そこがすごいです、と書いて提出した。

 しばらくして塾講師が作文を持って俺のところに来て、「これ、やらない人のことは置いて授業を進めるところが尊敬できるって意味?」と聞いてきた。俺は不安になった。完全にそう書いたからだ。つまり、伝わらないような文章だったのか、と思ったのだ。

 俺が「はい」と答えると講師は「そう…」と言って戻って行った。返却された作文を自分でも読み直したが、どう読んでもそうとしか捉えられなかった。あの講師は文章を読み取る力がないのだ、と思った。

 今考えれば、恐らく単純に書いてあることが先生として「王道」ではなかったので確認したのだろう。添削でどう書いてあったかは覚えてないが、内容の否定はされていなかった。

 もしも受験本番の作文で「尊敬する人」がテーマだったら俺は同じく関口先生の「やらない奴は置いていく」を書いて、そして落ちていたかもしれない。そう思うと運が良かった。

 

 実際に出たのは「日本の伝統的な道具の活用方法について」だった。俺は風呂敷がビニール袋の代わりになるからエコだ、みたいなことを書いた。なんなんだそのお題。

 

 

 

 

アレルギー枕草子

■春は花粉症

春は花粉症、やうやう下に垂れゆく鼻水、すこし多くて、赤みがかりたる目の酷く痒くなりたる。

 

■夏は汗疹

夏は汗疹、肘の裏はさらなり、首もなほ掻きむしりたる、マスクなどの裏さへ痒し。

 

■秋も花粉症

秋も花粉症、ブタクサはなやかに舞いて、目のいと痒くなりたるに、コンタクトの視界曇るとて、眼鏡など掛けるさへあはれなり。まいて肌などの赤みがかるたるや、いと痒く、いとをかし。ティッシュ尽き果てて、鼻の音、くしゃみの音など、いとあはれなり。

 

■冬は乾燥

冬は乾燥。喉の咳き込みたるは、いふべきにもあらず。肘の裏いと白きも、またさらでもいと痒きに、保湿クリームなど急ぎ塗りたくりて、我慢したるも、いとつきづきし。昼になりて、肌恐竜の如くなりゆけば、掻きむしりたるも、白き灰がちになりぬるはわろし。

 

 

少し無理をする

 2023年を迎えた。新年。もはや逆に新年を祝わない方がダサい。ベタに年越しそばを食べて初詣に行く方が良い。おみくじに書いてあることは次の日には忘れているけど、おみくじを引くその精神性に神が宿る。そうなんですか?

 

 今年の抱負は「少し無理をすること」にした。時代のブーイングが聞こえる。無理せず、自分を大切に甘やかして生きるべきだ、という時代の。俺はここ半年くらい時代に甘えすぎていたような気がする。

 

 半年前に今の部署に配属になり、とても忙しくなった。休日に電話が鳴ることも、終電で帰ることもしばしばある。(そんなのは当たり前だ、という人は自分を見つめ直した方が良い) だから仕事が終わるとクタクタで、何もすることができない。仕事を頑張っているのだから、俺は他に何もできないのは当然で、プライベートは自分を甘やかして生きるべきだ、と思っていた。だから筋トレもやめたし、読書もここ半年全くしていない。アニメやYoutubeを見る時間が増えた。

 

 余談だが、個人的には読書は動画を見るよりも体力を使う。自分で進めていかなくてはならない分、積極的娯楽の一つだと思う。動画は自分は何もしなくても情報が流れてくるので、俺は消極的娯楽だと思っている。

 

 そして半年間その生活を続けて分かったことがある。俺はそこまでクタクタになっていない。仕事はとても忙しいが、精神に異常を来たしたり、夜眠れなくなることもない。疲れてはいるが目が死んでいるわけではない。「こんなに仕事をしたら疲労困憊しているはずだ」と思い込んでいただけで、俺という容器は想定よりも強い。

 

 俺は健康に生まれたことに感謝して、その恩恵を享受することにした。今までよりも「少し無理をする」ということだ。ギアを上げるということだ。

 

 例えばこのブログを書いているのも俺の中では少し無理をしている。しばらく文章を書いていないから、出力にはそれなりのエネルギーを要する。でも俺は自分の文章が好きだからまた書きたい。そのためにまずはエンジンをかけてみる。そのうち温まってくるだろう。

 

考える時間がない!

 人生について検討する時間がない!

もう一度言うが今の俺には人生について検討する時間などないのだ。人生は常に目の前に迫っている。

 俺は簡単に言えば一ヶ月先の計画を立てるという仕事をしているが、要素が揃っていなくて決められない時、「じゃあここは実行調整にしましょう」と言って会議を打ち切ることがある。

 それと同じだ。俺たちは人生を実行調整していくしかない。日々人生をこなしていたらそれで一日が終わって、その累積が勝手に人生となっているだけだ。コーヒーを飲みながら深く椅子にこしかけ、人生のことを考える暇など!どこにあるというのか!

 しかしそもそも人生とは。人生というものを想像したときに、どういうイメージが浮かぶか?君たちはどう生きるか?何か道のようなものか?遠くまで続く道があって、自分は今その道中にいるのか。そしていくつもの分かれ道を経て未来へと進んでいくのか。

 いや、人生とは常に実行調整の積み重ねである!今、何をしているか、それしかない、自分がコントロールできるのは、今何をしているか、それだけであって、それ以外は全て幻想である!Doing, Doing, Doing,それだけが俺が何者か示すのであり、俺が何をこれからするのか、それは全く意味をなさない。

 いや、果たして。果たしてそうだろうか?人生は日々生きていくことの積み重ねなのか。生きることそのものが生きることなのか?だとしたら人間とはかなり虚しいものではないか?未来という概念を知った以上、未来をどう創るかを描き、そのために今を生きるというのが知性に与えられた使命なのではないか?お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?

 しかしとにかく時間がないのだ!かつての俺は世界について、人生について考える時間があった。しかし今となっては人生をこなしていくので精一杯だ。こうして人間は死んでいくのだ。物質的に豊かになる一方で精神は涸れていくのだ。自分がこんなに陳腐なことを言うとは思わなかったのだが。

 

 

 

 

 

人間の愚かさについて

 皆それぞれ生理的に嫌なことがあるとは思いますが、俺は、「自分には関係ないのに干渉すること」が嫌いだ。

 俺は基本的にあまり他の人に興味がなくて、自分に関係なければ何をやっても別に構わないと思っている。周りに迷惑をかけなければなんだって良いし、もっと言えば、周りに迷惑をかけていたとしても、自分に迷惑がかかっていなければ別に口出しをしようとは思わない。

 嫌なら迷惑をかけられた当人が言えばいいだけで、俺には他人の面倒まで見るほどの余裕がない。それを止めようという正義感は持ち合わせていない。

 ただし例外的に自分の眼の前で誰かが迷惑を被っていて、更に加害者と被害者との間に明確なパワーバランスがあり、自分であればそれを解決できる可能性がある、と感じた時には口出しをする場合もある。

 それは自分の価値観に照らし合わせて、その晩よく眠れる方を選ぶだけだ。(その晩よく眠れないなら自分に迷惑がかかっているとも言える)

 しかしどうやら、自分に関係あると感じる範囲が広い人も多いようだ。愚かな人間は(愚かな人間、は二重表現である。人間は愚かだから)、どう考えても自分には関係のないことで嘆いたり、憤ったり、文句を言ったりする。

 問題は、そういう人を見た俺が、不快に感じるということだ。これは俺の中では大きい矛盾である。つまり、「他人に口出しをする人間」の存在は俺には関係がないからだ。

 俺は自分に関係のないことに干渉する人間を嫌悪する。しかしその嫌悪する対象は俺には関係が無いのだから、俺自身が、自分には関係のないことに対して憤りを感じていることになる。俺も愚かな人間の一人だと言うことだ。

 俺はそういう人間を見たときに強いストレスを感じる。いつそういう人間を見るかと言えば、結局、Twitterなのである。

 そもそもTwitterというSNS自体が、知らねえ関係ない奴が関係ないことに対して勝手なことを言う、という設計になっているのだ。それを未だに眺めている俺は本当に愚かである。

 俺は自分が愚かな人間の一員であることが耐えられない。俺を救う道は一つしかない。それは、俺が実は人間ではなくて龍の末裔であることだ。龍の末裔は普通に暮らしていながらある時突然そう知らされることも多いと聞く。だから俺が龍の末裔である可能性もまだ存在するというわけだ。しかし、黒髪で眼鏡かけた龍の末裔も珍しいか。

 まあその場合は自分が愚かな人間ではなく、愚かな龍の末裔であるとわかるだけなのだが。

 

 

 

客観的な主観

 俺は声が低い。中学生の時に声変わりをしてそれからずっと低めの声で生きてきた。自分の持って生まれた声の低さが好きだった。

 

 と思っていた。

 この前「あなた本当は声低くないと思う」と言われた。「低い声を出そうとしているだけで、本当はもっと高い声だよ」とのこと。何を言っているのかわからなかった。俺の声は元々低いはずだ。だって自分で低い声を出している自覚がない。

 しかし、思い当たる節はある。俺は歌う時には低い音程が出ない。高校の合唱コンクールではバスではなくテノールだった。それに、めちゃくちゃ面白いことがあった時に盛り上がった自分の声は、思いの外、高い。

 これはかなり俺の根本を揺るがす発見だった。俺は今まで声を人為的に低くして出していた可能性がある。その発声に慣れすぎて今ではもう生来の声の出し方がわからなくなっているのだ。

 恐らく中学生で声変わりが起こり始めたとき、「低い声がかっこいい」と思ったのだろう。そして意図的に低い声を出し続けていたのだ。考えてみると、声が低い人の声は低音だが聞き取りやすい。対して俺の声は低い上に聞き取りにくい。喉を潰して喋っているのが原因だろう。

 つまり、俺が自分の生来の性質だと思っていたものが、自分の意識によって無理やり作り出されたものだったということだ。そもそも人間の性質は環境の影響を強く受けるが、それは無意識の作用である。自分自身が意識して変化させたものをいつのまにか内面化しているというのは、少し寒気のすることじゃないか。

 そうであれば、俺の他の性質についても同じことが言えるのではないか。俺の考え方や価値観も、俺自身が意識的に(或いは無意識的に)捻じ曲げたもので、生来の俺の性質ではないのだろうか。

 考えてみると、俺は普段から「俺だったらこうする」という指標に則って自分の行動を決めている節がある。自分のことなのだから当たり前だと思われるかもしれないが、俺の場合は自分自身の核に自分とは異なる「俺」という存在が別にあるという感覚なのだ。

 伝わるだろうか。「俺」は存在というより価値観の束と言ったほうが正確かもしれない。俺は自分自身の判断や言動をその価値観と照合して決定している。

 俺は他の人ではないから人々がどのように判断しているのかその本質はわからない。しかし恐らく、一般的には、内面に明確にある価値観と照合しているわけではないと思う。なぜなら、本来はその判断の集積を価値観(感性)と呼ぶはずだからだ。それが正しい順番であり、俺のように沿うべき価値観が先にあって、次に判断があるのは、逆だ。通常は判断が価値観を形成し、それは有機的でダイナミックなものでなければならない。(しかしこれは予想でしかない。みんな先に価値観があるのかもしれない)

 噛み砕けば、例えばAとBという選択肢があったとき、俺の場合は「俺だったらAだろうな」と考えて、Aを選ぶ。本当はAが嫌だったとしてもだ。(これは無意識にだが)俺だったら声が低いだろうな、と思って声を低くしていた。恐らく通常であれば、Aを選択した結果として、「Aを選ぶ俺」が形成されるはずだ。

 では俺の内面に常にある、「Aを選ぶ俺」とは何者なのか?何によって形成されているのか?

  デカルトの方法的懐疑のようにその答えを探した結果、俺は「とにかくかっこよくいようとしているだけ」だと気づいた。「ダサくなりたくない」と言い換えても良い。

 全ての判断は「どっちがかっこいいか」に紐づいている。俺の中にいる「俺ならこうするべき」という価値観は、「かっこいい俺ならこうするべき」という、ただそれだけだった。

 判断をくだしている俺自身はかっこよくないが、「かっこいい俺」と照らし合わせて時に渋々判断をする。そして自分自身がかっこいいと自己暗示をかけていく。この作業を繰り返した顕著な成功例(或いは失敗例)が「自分の声が低いものだと勘違いしていた」ということだ。

 実際には判断を下すときに内面の「かっこいい俺」と比較して決めているという自覚があるので、まだ成功していないのだ。声のように自己暗示をかけることができたら、俺の自我自身もかっこよくなるだろう。

 さて問題は、ここまでの思考も客観的に「俺ならこう考えるだろう」と俯瞰して辿ってきたということだ。それは客観的というか、極度に主観的と言うべきなのだろうが。

 

 

人間は消費するもので定義されている

 皆さん!人間は消費するもので定義されている!

 あなたがどういう人なのかを、他者はあなたが何を消費しているかで決定している。どんな本を読みますか。どんな音楽を聞きますか。どんな服を着ますか。何を食べ、何を観賞しますか。

 逆も同じ。他者がどういう人なのかを、あなたは、他者が消費するもので定義する。

 或いは、自分自身をも定義している。

 

 人類最大の発明の一つである、「貨幣と将来への信用」によって築かれた資本主義体制の中で、世の中はモノとサービスで溢れている。広告によって消費活動は善であると刷り込まれている。そして私たちは日々何かを消費しながら生活する。

 消費に必要なものは二つである。お金と、時間。どちらも有限で貴重な資源である。消費するというのは、その貴重な資源を投入する優先順位を決めるということだ。

 すなわち、その個人が何に(貴重な資源を割く)価値があると判断しているかという指標、価値観を掲げる看板である。その集合が個人のアイデンティティを形成する。他者は、消費するものを見て、その個人の価値観を知り、どんな人間なのか評価する。

 消費するものに応じて、似た価値観を持っている(と思われる)者同士が集まり、コミュニティを築く。逆に、似た価値観を持っていない(と思われる)者は排斥される。

 他者だけではなく、自分自身も、自らのアイデンティティを自分が消費するもので判断してしまう。憧れている他者に近づく為に、彼が消費しているものを消費するという場合もあるだろう。

 

 この方法は他者がどういう人間なのかを素早く判断することができる為重宝されている。私たちが所属している社会はとにかく多くの人間によって構成されており、その全体の中のほんの一部とはいえ、それでも多くの人間と関わりをもつ必要がある。その他者がどんな人間なのかいちいち精査するような興味も時間もないので、私たちはその人が何を消費しているかで価値観を知り、大まかな人物評価とグループ分けを(無意識に)行う。多くの場合、個人同士の関係はそれで間に合っている。

 それ以上に他者がどういう人間か知るには、さらに多くの時間を投与する必要がある。逆に言えば、消費するもので知り得る価値観は表面的な看板に過ぎず、交流する中でしか他者を理解することはできない。

 

 私は、会話がテンプレートから外れた瞬間にその相手がどんな人間かが垣間見えると思っている。

 よく知らない人間同士の会話には明らかにテンプレートがある。こう発言したらこう返し、そしてここで笑う、というような。選択肢がいくつか存在する場合もあるが、それとて海か山かというような瑣末な違いでしかなく、大局には影響しない。それを繰り返すことで「私はあなたに敵意はありませんよ」「私は妙な人間ではありませんよ」と表現する効果がある。

 この会話には大きな意味はなく、どんな人間であるかは、少なくともわかりやすく常軌を逸した人間ではないようだ、といった程度しかわからない。

 そのテンプレートを何度か繰り返す中で、ふと私が予想していないような言葉が発せられる時がある。私にとってはその言葉こそ相手がどんな人間かを理解する糸口である。

 あまり具体例を挙げたくはないのだが、例えば、「ディズニーランドに行きました」と私が話したとする。そこから予想される流れは「誰といったか」「天気はどうだったか」「混み具合はどうだったか」などであり、続いて相手が「最近ディズニーランドに行っていない(行った)」と話す場合も考えられる。その中で、「夢の国っていうけど、夢は現実よりも楽しいってことなのかな」などと話してきたら、私は興奮する。予想していなかったからだ。それに、そこからの流れも予想できない。テンプレートから逸脱した時に初めてどんな人間かが見える。

 

 誤解してほしくないが、私は消費するものによって人間を判断したり、テンプレートに則って会話したりすることを否定しているわけではない。むしろ好ましく思っている。とにかく社会には人間が多すぎるのだから、特に興味のない人間同士での関わり方が大まかに決められているのは当然だし、ありがたい。

 ただし面白い人間はその方法では発掘できないよと、それだけのことである。