銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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人間は消費するもので定義されている

 皆さん!人間は消費するもので定義されている!

 あなたがどういう人なのかを、他者はあなたが何を消費しているかで決定している。どんな本を読みますか。どんな音楽を聞きますか。どんな服を着ますか。何を食べ、何を観賞しますか。

 逆も同じ。他者がどういう人なのかを、あなたは、他者が消費するもので定義する。

 或いは、自分自身をも定義している。

 

 人類最大の発明の一つである、「貨幣と将来への信用」によって築かれた資本主義体制の中で、世の中はモノとサービスで溢れている。広告によって消費活動は善であると刷り込まれている。そして私たちは日々何かを消費しながら生活する。

 消費に必要なものは二つである。お金と、時間。どちらも有限で貴重な資源である。消費するというのは、その貴重な資源を投入する優先順位を決めるということだ。

 すなわち、その個人が何に(貴重な資源を割く)価値があると判断しているかという指標、価値観を掲げる看板である。その集合が個人のアイデンティティを形成する。他者は、消費するものを見て、その個人の価値観を知り、どんな人間なのか評価する。

 消費するものに応じて、似た価値観を持っている(と思われる)者同士が集まり、コミュニティを築く。逆に、似た価値観を持っていない(と思われる)者は排斥される。

 他者だけではなく、自分自身も、自らのアイデンティティを自分が消費するもので判断してしまう。憧れている他者に近づく為に、彼が消費しているものを消費するという場合もあるだろう。

 

 この方法は他者がどういう人間なのかを素早く判断することができる為重宝されている。私たちが所属している社会はとにかく多くの人間によって構成されており、その全体の中のほんの一部とはいえ、それでも多くの人間と関わりをもつ必要がある。その他者がどんな人間なのかいちいち精査するような興味も時間もないので、私たちはその人が何を消費しているかで価値観を知り、大まかな人物評価とグループ分けを(無意識に)行う。多くの場合、個人同士の関係はそれで間に合っている。

 それ以上に他者がどういう人間か知るには、さらに多くの時間を投与する必要がある。逆に言えば、消費するもので知り得る価値観は表面的な看板に過ぎず、交流する中でしか他者を理解することはできない。

 

 私は、会話がテンプレートから外れた瞬間にその相手がどんな人間かが垣間見えると思っている。

 よく知らない人間同士の会話には明らかにテンプレートがある。こう発言したらこう返し、そしてここで笑う、というような。選択肢がいくつか存在する場合もあるが、それとて海か山かというような瑣末な違いでしかなく、大局には影響しない。それを繰り返すことで「私はあなたに敵意はありませんよ」「私は妙な人間ではありませんよ」と表現する効果がある。

 この会話には大きな意味はなく、どんな人間であるかは、少なくともわかりやすく常軌を逸した人間ではないようだ、といった程度しかわからない。

 そのテンプレートを何度か繰り返す中で、ふと私が予想していないような言葉が発せられる時がある。私にとってはその言葉こそ相手がどんな人間かを理解する糸口である。

 あまり具体例を挙げたくはないのだが、例えば、「ディズニーランドに行きました」と私が話したとする。そこから予想される流れは「誰といったか」「天気はどうだったか」「混み具合はどうだったか」などであり、続いて相手が「最近ディズニーランドに行っていない(行った)」と話す場合も考えられる。その中で、「夢の国っていうけど、夢は現実よりも楽しいってことなのかな」などと話してきたら、私は興奮する。予想していなかったからだ。それに、そこからの流れも予想できない。テンプレートから逸脱した時に初めてどんな人間かが見える。

 

 誤解してほしくないが、私は消費するものによって人間を判断したり、テンプレートに則って会話したりすることを否定しているわけではない。むしろ好ましく思っている。とにかく社会には人間が多すぎるのだから、特に興味のない人間同士での関わり方が大まかに決められているのは当然だし、ありがたい。

 ただし面白い人間はその方法では発掘できないよと、それだけのことである。