銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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客観的な主観

 俺は声が低い。中学生の時に声変わりをしてそれからずっと低めの声で生きてきた。自分の持って生まれた声の低さが好きだった。

 

 と思っていた。

 この前「あなた本当は声低くないと思う」と言われた。「低い声を出そうとしているだけで、本当はもっと高い声だよ」とのこと。何を言っているのかわからなかった。俺の声は元々低いはずだ。だって自分で低い声を出している自覚がない。

 しかし、思い当たる節はある。俺は歌う時には低い音程が出ない。高校の合唱コンクールではバスではなくテノールだった。それに、めちゃくちゃ面白いことがあった時に盛り上がった自分の声は、思いの外、高い。

 これはかなり俺の根本を揺るがす発見だった。俺は今まで声を人為的に低くして出していた可能性がある。その発声に慣れすぎて今ではもう生来の声の出し方がわからなくなっているのだ。

 恐らく中学生で声変わりが起こり始めたとき、「低い声がかっこいい」と思ったのだろう。そして意図的に低い声を出し続けていたのだ。考えてみると、声が低い人の声は低音だが聞き取りやすい。対して俺の声は低い上に聞き取りにくい。喉を潰して喋っているのが原因だろう。

 つまり、俺が自分の生来の性質だと思っていたものが、自分の意識によって無理やり作り出されたものだったということだ。そもそも人間の性質は環境の影響を強く受けるが、それは無意識の作用である。自分自身が意識して変化させたものをいつのまにか内面化しているというのは、少し寒気のすることじゃないか。

 そうであれば、俺の他の性質についても同じことが言えるのではないか。俺の考え方や価値観も、俺自身が意識的に(或いは無意識的に)捻じ曲げたもので、生来の俺の性質ではないのだろうか。

 考えてみると、俺は普段から「俺だったらこうする」という指標に則って自分の行動を決めている節がある。自分のことなのだから当たり前だと思われるかもしれないが、俺の場合は自分自身の核に自分とは異なる「俺」という存在が別にあるという感覚なのだ。

 伝わるだろうか。「俺」は存在というより価値観の束と言ったほうが正確かもしれない。俺は自分自身の判断や言動をその価値観と照合して決定している。

 俺は他の人ではないから人々がどのように判断しているのかその本質はわからない。しかし恐らく、一般的には、内面に明確にある価値観と照合しているわけではないと思う。なぜなら、本来はその判断の集積を価値観(感性)と呼ぶはずだからだ。それが正しい順番であり、俺のように沿うべき価値観が先にあって、次に判断があるのは、逆だ。通常は判断が価値観を形成し、それは有機的でダイナミックなものでなければならない。(しかしこれは予想でしかない。みんな先に価値観があるのかもしれない)

 噛み砕けば、例えばAとBという選択肢があったとき、俺の場合は「俺だったらAだろうな」と考えて、Aを選ぶ。本当はAが嫌だったとしてもだ。(これは無意識にだが)俺だったら声が低いだろうな、と思って声を低くしていた。恐らく通常であれば、Aを選択した結果として、「Aを選ぶ俺」が形成されるはずだ。

 では俺の内面に常にある、「Aを選ぶ俺」とは何者なのか?何によって形成されているのか?

  デカルトの方法的懐疑のようにその答えを探した結果、俺は「とにかくかっこよくいようとしているだけ」だと気づいた。「ダサくなりたくない」と言い換えても良い。

 全ての判断は「どっちがかっこいいか」に紐づいている。俺の中にいる「俺ならこうするべき」という価値観は、「かっこいい俺ならこうするべき」という、ただそれだけだった。

 判断をくだしている俺自身はかっこよくないが、「かっこいい俺」と照らし合わせて時に渋々判断をする。そして自分自身がかっこいいと自己暗示をかけていく。この作業を繰り返した顕著な成功例(或いは失敗例)が「自分の声が低いものだと勘違いしていた」ということだ。

 実際には判断を下すときに内面の「かっこいい俺」と比較して決めているという自覚があるので、まだ成功していないのだ。声のように自己暗示をかけることができたら、俺の自我自身もかっこよくなるだろう。

 さて問題は、ここまでの思考も客観的に「俺ならこう考えるだろう」と俯瞰して辿ってきたということだ。それは客観的というか、極度に主観的と言うべきなのだろうが。