銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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夏合宿と淀みの話

部活の夏合宿に行ってきた。

躰道部」という部活だ。

 

武道系なので、最終日には毎年恒例の千本突きが行われる。
4年生の先輩方が全部員の前を回って正拳突きをし、一人ずつ思いの丈を叫んではまた永遠に正拳突きをするイベントだ。


これが体育会系ど真ん中という感じでめちゃくちゃ良い。


これが先輩方の最後の合宿になって、次の春合宿からは先輩方は卒部して、いなくなる。

ずっといらっしゃると思っていた。

 

これからも我々に指導をくださるものだと思っていたが、気づけば後輩が入り、我々も指導をする立場になり始めている。

 

とんでもないことだ。

 

これは「◯◯期の先輩がいなくなっちゃうの寂しい〜〜〜〜😭😭😭😭 一年早すぎ😭😭😭😭」というインスタでよく見る感情だけではないと思う。

 

こうやって先輩が卒部していき、後輩が入ってきて、それでも躰道部は躰道部であり続けるのだろうか。

 

これから先、我々が一番上の代になったとしても、それは今の躰道部と同じ躰道部なのだろうか。

 

テセウスの船」という有名なパラドックスの話がある。船の部品が全て入れ替わってもその船は同じ船と言えるのか、というあれだ。

 

「東大躰道部」がこれまで存続してきて、これからも存続していくならテセウスの船は同じ船だということになる。

 

高校の時の現代文のテストか何かで読んで、未だに覚えている文章がある。

 

確か、「世界に存在するもの全ては、中身が常に入れ替わり続け、流れの中の"淀み"のようなものだ」というのが要旨だったと思う。

 

生き物を構成する原子は常に入れ替わり続けているから、生き物さえ"淀み"である、と。

 

淀みだから実態はあるように見えるがよく見ると輪郭はぼんやりしており、外界との明確な区別はない。

 

これにオレは妙に納得した覚えがある。

 

諸行無常」とは少し違うような気がする。始まりがあって、終わりがあっても、それは流れであり、"淀み"はそこに存在し続ける。

 

テセウスの船は同一の船であり、明日の自分と今日の自分は同じで、また、東大躰道部は存続し続ける。

 

その意味で組織は生き物であり、機体ではない。我々は操縦士ではなく、組織そのものであり、入れ替わり続ける。

 

我々は世界を構成する一つの要素でしかなく、世界は流動し、誰が死んでも、流れはとどまることがない。

 

世界は一つの生き物のようだ。

 

その流れは"時間"だろうか。

 

常に一方向に流れ続け、遠くからはゆったりと見えるが、実際にはその流速は速く、どれほどの権力者でも逆走はできず、次に進むしかない流れ。

 

その中の我々は"淀み"であり、また、"淀み"を形成する要素でもある。

 

 

夏合宿の話から余りに話を壮大にしてしまったな。

躰道がんばります。