天狗山
「書くことですよ、青山さん、とにかく書くことです」
と言って千田はぐーっとビールを煽った。「書かなければ終わりませんからね。しかしそれは書けば終わるってことですよ」
千田は若干ろれつが回らなくなっている。俺は最後の餃子を口に放り込んで「そんなことはわかってるんだよ」と凄むように言った。
俺はルポライターで、千田は編集者だ。廃れていく地域社会をテーマに独居する老人を取材したり、大学を卒業したが就活に失敗した「就職浪人生」のことを書いたりしてきた。しかし今回千田が持ってきた仕事は、「都市伝説の真実を探る」というものだった。千田は「もう、社会問題なんかを取り上げてる時代じゃないんだと思います。オカルトなんかが一番喜ばれるんですわ」と頭をかいた。
方針が変わっても俺に原稿を回してくれているのはありがたい話だが、俺には都市伝説の知見などなく、何から取材したら良いのかわからない。そう言うと千田はまあまあ、と俺を馴染みの「柳」へと連れ出したのだった。
「あまり真面目に考えてはダメです。そもそも都市伝説なんてものがふざけた話なんですからね。適当な話を見つけて、地元の人たちに話聞いて、真相は藪の中、これでいいじゃないですか。シンソウヤブですよ、シンソウヤブ」
千田は適当に喋っているが、案外そんなものなのかもしれなかった。追加のビールを運んできたバイトのユキちゃんに聞いてみる。
「何か都市伝説って知ってる?」
「都市伝説ですか?あっ!トトロは実は死神で、サツキとメイちゃんはもう死んでるって聞いたことありますよ!影が無くなってるとかなんとか!」
「ラーメンマン?」
俺はユキちゃんとのジェネレーションギャップを嘆きつつ、追加でマグロ刺身を注文した。はーい、と厨房に戻っていく。
「トトロは権利関係が難しいかもしれないですねえ」
と千田が何故か真面目な顔で言う。書くわけがないのだ、そんなものは。まずは骨のありそうな都市伝説を探さなくてはならない。「柳」に来たは良いが方針はまるで立っていないままだ。
「あっ、そういえば青山さん。私思い出しましたよ」
「トトロは死神だって話か」
「違いますよ。あの、河南にも都市伝説ありましたよね。神隠しがなんたらって」
「河南にも?」
実は俺と千田は同郷である。一緒に仕事をし始めてからそれが判明し、一気に意気投合したのだ。俺たちは東北にある「河南」という町のような村のようなところから上京してきていた。まさか東京で河南の人間に会えるとは思わなかったので嬉しかった。世間は狭いものだ。
「河南にそんな話があったかなあ…」
「ありましたよ。神隠しです。絶対ありました。神隠しなんか一番良いんじゃないですか。都市伝説中の都市伝説。都市伝説のグランドチャンピオンですわ」
千田はそう言って箸を振り回した。
次の日、俺は河南に行ってみることにした。他に当てもなかったし、両親が他界してから河南にも帰っていなかったので丁度良い機会だと思った。河南までは特急を使えば二時間とかからない。他に抱えていた原稿を車内で片付けてしまおうと思っていたがどうにも集中できず、そのまま眠ってしまった。
俺は山の中を走っていた。何かに追われているのだろうか。とにかく、後ろを振り返ってはいけない、という思いだけがあった。俺は泣いていた。混乱していた。早くここを離れよう、と考えていた。夕暮れどきのようで、山の中は薄暗かった。俺は木の根に足を取られながら必死で走り続けた。
大きく電車が揺れて目が覚めた。また同じ夢だ。山の中を走るこの夢は俺が子供のときから何度も見るものだったが、俺自身にそんな経験はなかった。特に害もなかったので誰にも話したことはない。どうせ映画かなにかで見たものが焼き付いてしまったのだろう。電車はもうすぐ河南に着きますよと機械の男の声が告げていた。
河南で降りたのは俺だけだった。俺はホームに出ると意味もなく伸びをした。駅前に出るとタクシーが一台止まっていたので、乗り込んで宿の名前を告げた。
「お客さんどこから来たんですか」
「東京ですよ」
「へー、東京から!」
と運転手が驚いたように言った。俺はダメ元で聞いてみることにした。
「実は私雑誌の記者をやってましてね。取材に来たんですよ」
「取材ったってなあ、何にもないですよ。ああ、こないだトクさんが山ででかい熊を一頭仕留めましたよ。裏手の山でね。あれは本当にでかいやつだったなあ。このあたりのね、ボスだと思いますよ。それですか」
運転手は本気かどうかわからないようなことを言う。
「いえ、この辺りで神隠しの噂があったりしませんか。それを取材に来たんですけどね」
「神隠し?ああ……たしかに昔あったかもしれないですよ。でも、もう二十年前くらいになるんじゃないですか?私が中学生くらいだったころですからね」
そのくらい前だったら俺も河南にいただろう。なぜ俺は神隠しの話を全く知らないのか。幼すぎて忘れてしまっただけだろうか。
久しぶりに会ったタツヤは全く変わっていなかった。河南に残っている数少ない友人で、俺は河南に帰るといつも彼と飲むことにしていた。タツヤは三年前に結婚して、二人の子供と奥さんと暮らしている。奥さんもまた河南出身だった。河南のことならなんでも知っている、そんな男だ。
「タツ、河南に何か都市伝説のようなものはあるか」
「なんだお前そんなものに興味があるのか」
「仕事だよ」
「変な仕事だな」
タツヤは怪訝な顔をして言った。
「都市伝説と言えばお前、神隠しの話があったじゃないか」
やはり神隠しである。河南の人間全員が知っている話なのだ。俺を除いては。
「なんだお前、忘れたのか」
とタツヤは驚いた顔をして俺を見る。
「あれは確か俺たちの同級生がいなくなった話だったぞ。名前は…なんとかケンとかいったか……」
「俺たちの同級生?」
「そうだよ。お前なんで忘れちまってるんだ?東京行くとそうなるのか」
俺は思い出そうとするが全くダメだった。記憶の片鱗すらも蘇らない。
「それは今も行方不明、ってことなのか」
「そうだ。俺たちが小学校、二年、いや三年かな、そのくらいの話だったと思う。天狗山あるだろ。小学校の裏に。あそこに遊びに行ったまま帰ってこなかった、とかなんとかだ。大方、道にでも迷ったんだろうが、可哀想な話だ」
「小学校三年生が、天狗山に一人で遊びに行ったのか?」
「さあ」
「それに、なぜ天狗山に行ったと分かったのだろう。親に報告していたのかな。しかし一人で行くなんて、親は止めなかったのだろうか」
「そんなことまで俺に聞くなよ」
タツヤはめんどくさそうに言ってビールを煽った。
あの後何度か探りを入れてみたが、どうやらタツヤもそれ以上のことは覚えていないようだった。俺は宿のベッドに寝転びながら、明日天狗山に行ってみようと思った。何か分かるとは思えなかったが、いずれにせよこのままじゃ記事にはならない。山の写真の何枚かは必要だろう。適当なお地蔵さんか何かがあれば都合が良い。そう考えた。
その日も夢を見た。いつもの山を走る夢とは少し違っていた。山の中で俺は何かを追いかけている。今までの夢は寧ろ何かから逃げるような気持ちだったのだが、その日の俺は明らかに追いかける側だった。俺は興奮していた。しかし俺は、この後何か取り返しのつかないことが起こるような気がしていた。
次の日俺はバスで天狗山に向かった。気持ちよく晴れていた。窓の景色を眺めながら、俺は記事をどう作ろうかと考えていた。どんなものであれ、何か仮説を立てる必要があった。
これは失踪系都市伝説によくある矛盾だが、何故失踪した場所が特定されているのだろうか。本人は消えているのだ。事前に行き先を告げてから小学校三年生が一人で山の中に行くなんてことがあり得るだろうか。東京だと考えられないが、田舎では珍しくないのだろうか。しかし、この辺りには熊だって出るのだ。
そうであれば、やはり誰かと一緒に山に行ったと考えるのが自然だ。二人以上で山に行き、なんらかの理由でケンだけが失踪し、無事だった者が帰ってきてこの話を伝えた、ということだろう。
だとすればその人間が詳しいことを知っているはずだ。今日天狗山で写真を撮ったあと、その人が誰なのか調べてみようと思った。俺は取材の目処が立ったので満足して少し眠った。
天狗山の中は涼しかった。心地よい虫の声が聞こえ、どこかで鳥が鳴いていた。小さい頃に何度かこの山に遊びに来たことがある。俺は大きく深呼吸をしてから、懐かしい気持ちで写真を一枚撮った。
山の奥に進んでいくと、やはりなんとなく見覚えがあるような気がした。何年も経っているので自然物は変化しているはずだが、山全体の持つ雰囲気というのか、それを体が覚えているのだ。
俺はあることに気がついて立ち止まった。俺が何度も見ている夢に出てくる山、あれは天狗山なのではないだろうか。特に根拠はなかったが、なんとなくそう感じた。俺の妄想が作り上げた架空の山だと思っていたが、モデルがあったのだ。だとすれば、あの夢、山の中を必死で走って、何かから逃げた、また何かを追いかけていた、あれも俺の経験なのだろうか。
どこかでガサリ、と音がした。ザザザザ、と木々の葉が鳴った。高く伸びた木が俺に覆いかぶさってくる。いつのまにか太陽は隠れている。
俺は山の中を走って、それを確かめようとした。
息が切れるほど走ったあと、突然視界が開けて、目の前に崖が現れた。俺は確信した。
神隠しにあったと言われているケン、彼と天狗山に行ったのは、俺だった。
俺は学校の帰りにケンと二人で天狗山に遊びに行った。俺たちは山の中で鬼ごっこをした。その日、最初の鬼は俺だった。ケンは運動神経が良かったので、山の中で彼に追いつくのは骨が折れた。俺は必死にケンを追いかけた。ケンは笑って俺を揶揄うように振り返りながら走っていた。
そして突然、目の前に崖が現れた。ケンは驚いたような顔をして落ちた。俺は慌てて崖下を覗いたが、彼の姿は見当たらなかった。高い崖だった。
俺は恐ろしくなってその場から逃げた。自分が殺したような気がした。今にもケンが俺の肩を掴むのではないかと思って、泣きながら走った。
俺は崖の前で座り込んでしまった。これで記事は振り出しだな、とボンヤリと考えていた。