銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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俺たちにソリを貸さないとどうなるのか

 その日、札幌市のモエレ沼公園は雪が降っていた。イサム・ノグチという有名な彫刻家が設計したこの広大な公園は、幾何学模様を基調にして山、噴水、遊具などが整然と配置されているらしいが、今は雪に覆われているだけでよくわからなかった。

 しかし見渡す限りの雪景色は、二泊三日の北海道旅行にきた俺と彼女が札幌駅からわざわざバスで一時間かけてやってくるには十分すぎるものだった。

 公園には誰もいなかった。一組の人間と犬の足跡だけがあった。少し雪がちらついていた。特に看板のようなものもなく、俺たちはただあてもなく雪の中を進んだ。

 遭難するのではないか、と不安になってきた頃、遠くに正四面体の透明な建物が見えてきた。どうやらあれが公園のメインである「ガラスのピラミッド」というやつだろうと見当がついた。彼女と話し合い、まずあそこを目指して進み、一度中で休憩をしよう、ということになった。

 幸い「ガラスのピラミッド」は中に入ることができるタイプの建造物だった。巨大なオブジェだったらどうしようと思っていたところだ。ピラミッドの隣には駐車場があり、何台か車が停まっていた。歩いてくるような酔狂な人間はいないのだろう。ガラスの扉を開けるとまず左手にトイレがあり、奥にもう一枚扉がある。

 その向こうは休憩室のようになっており、イサム・ノグチの作品がいくつか飾られていた。俺と彼女は、ふーん、とわかったような声を出しながら手を後ろに組んで歩き回っておいた。これはイサム・ノグチに対する敬意の表明だった。

 ピラミッドの中には受付カウンターがあった。その中に人の姿は見えなかったが、「御用の方はボタンを押してください」と書いてあった。俺はボタンを押すと係の人と話せるのだと思う、と名推理を披露して彼女の尊敬を勝ち取った。そこにはもう一枚貼り紙があり、「ソリの貸し出しを行っています」と書いてあった。

 実は俺と彼女がこのモエレ沼公園にわざわざ足を伸ばした大きな理由はこのソリだった。この公園にはいくつも大きな山が配置されており、冬はソリ遊びができますよ、とインターネットに書いてあったのだ。

 彼女は「ソリ、借りられます」と嬉しそうに言ったが、俺の目はその下の文字まで素早く読んでいた。そこには「※1〜3月のみ」と書いてあった。俺は携帯を取り出して日付を確認した。12月17日であった。

 俺は彼女にこの事実をどう伝えるべきか迷った。ソリに乗るためにわざわざここまで来たのに、ソリを借りられない、となると彼女がどうなってしまうのかわからなかった。最悪の場合、斧などを持ち出される可能性もあった。かく言う俺もソリを本当に楽しみにしていた。

 俺は無言で「※1〜3月のみ」と書いてある箇所を指差した。彼女はそれを見ると「私たちソリに乗れないってこと?」と聞いてきた。俺は「今は12月17日だから1月ではない、あと二週間後には1月だけどね、だからソリには乗れない」と丁寧に説明した。彼女は「でも、聞いてみないとわからない」と言った。まだ目が諦めていなかった。

 たしかに、いくら1月ではないといえ、12月17日にソリを借りることができない道理は無いように思えた。そもそも暦とは人間が勝手に名付けたもので、本来時間の流れは悠久であり、12月17日と1月に大きな差は無いのである。映画に出てくる看守のように「さて、私は今からしばらく目を離してしまうから、その間に誰かがソリに乗っていても気づかないだろうな」と言ってくれるかもしれない。

 そのようなことを考えて俺はボタンを押した。インターホンから「はい」と女性の声がしたので、俺は「ソリを借りたいのですが…」と言ってみた。すると女性は申し訳なさそうに「すいません、1月からなんですよ」と言った。彼女が素早く「やっぱり難しいですか」と割って入ったが女性は「そうですね…」と言ったきりだった。俺たちは「ありがとうございました」と言って顔を見合わせた。

 俺は「俺たちにソリを貸さないとどうなるか教えてやろう」と力強く言った。彼女はしっかりと頷いた。

 俺たちはガラスのピラミッドを出ると一歩一歩雪を踏みしめながら雪山を登っていった。斜面は思ったよりも急だったが、俺たちは互いに鼓舞しながら確実に頂上との距離を縮めていった。

 雪に覆われた真っ白なモエレ沼公園は美しかった。息を切らしながら頂上に辿り着いた俺たちは雪の上に腰を下ろしてしばらくその全貌を眺めていた。

 おもむろに彼女が「よし!」と言って立ち上がった。そして頂上をぐるりと回って、「ここが良いと思う」と斜面の一つを指さした。彼女は斜面のふちに腰掛けると、俺の方を振り向いて「では行きます」と言った。俺は頷いた。彼女はそのまま斜面を座ったまま滑り降りていった。思ったよりもスピードが出ていた。

 斜面の途中で止まった彼女は身体中雪まみれで笑っていた。シンとした公園の中に彼女の笑い声だけが響いていた。俺は後に続くように斜面を滑り降りていった。全ての服が濡れていたが、俺たちにはそんなことは関係がなかった。