銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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視力検査戦記

土曜日の朝、久しぶりに眼科に行くことにした。コンタクトレンズを買うためだ。

 

オレはコンタクトと眼鏡を併用しているが、最後に視力をしっかり測ったのは二年ほど前だ。確か両目とも0.01か2で、左目だけ乱視が入っている。最近コンタクトが合ってないような気がしてきたので眼科でちゃんと見てもらうことにしたというわけだ。

 

保険証を提出して、待合室で座っていると名前を呼ばれる。熱気球を覗いて、眼球に風を浴び、視力検査になる。

 

「どこが空いてるか教えてくださいね」とお姉さんは丁寧に視力検査のルール説明をしてくれる。二年間のブランクがあるオレにはとても助かる。初見殺しの新ルールが追加されている可能性もあるからだ。

 

オレの回答に合わせて次々とレンズが変えられる。お姉さんの手際は非常に良いが、なかなか焦点が合ってこない。オレの「おめがね」にかなうレンズは無いのか(上手い)。

 

と、オレの知らないイベントが発生した。「今のレンズと、このレンズ(別のレンズを重ねる)だったらどっちが見やすいですか?」とお姉さんに尋ねられたのだ。オレは戸惑った。主観。あまりにも主観すぎる。「視力検査」という医学的に確立された検査において、こんなにも主観が入り込む余地があるとは。「どちらが見やすい」に対して客観性はどう担保されるのだろうか。

 

オレは「うん……」と口籠もってしまった。するとお姉さんは「いきますよ〜?今のレンズと、せーの!はい!(レンズを重ねる)どっちが見やすいですか?」とエンタメ性を加えてくれた。別にオレはさっきの説明が理解できなかったから悩んでいるわけではないのだが、何となく後者の方が見やすいような気がした。

そもそも、お姉さんに「せーの!」などと言われたら見やすくなるに決まっているのだ。

 

その後もオレとお姉さんは着実にステージをクリアしていき、全クリも時間の問題かと思えた。しかし、突然お姉さんのレンズを選ぶ手が止まった。何か考え込んでいる様子だ。何か悩みがあるなら言ってほしい。何もできないかもしれないけど、そばにいることはできる。

 

どうやら、オレの選択が正規ルートにはまっていないようなのだ。恐らく視力検査には、「ここを間違えたらこのレンズ、これを正解したら次はこれ」と言った定石があるのだろうが、オレの正誤とレンズの選択がお姉さんのロジックに合致していないようだ。

 

この推理を裏付けるようにお姉さんはオレに「普段から視力出にくかったりします?」と聞いてきた。オレは「そうかもしれないです」と申し訳なさそうに言った。実際には別にそんなことはないが、お姉さんに傷ついてほしくなかった。その気持ちがオレに嘘をつかせた。神様も赦してくださるだろう。

 

お姉さんは無言で頷いた。頼もしい限りである。

 

それからオレたちは数々の試練をこなし、視力検査を終えた。オレとお姉さんは互いの健闘を讃えあいながら別れ、待合室に戻った。

 

再会の時はすぐに訪れた。待合室でよるべなく座っていたオレを、お姉さんが「こちらへどうぞ」と呼んだ。救いを得たオレは彼女の後に従い、鏡の前に座った。

お姉さんはコンタクトレンズの箱をオレに見せながら、「両目とも乱視が入っています」と言った。ふとオレは「私、前までは左だけ乱視だったんですけど、右も乱視になってますか」と聞いた。

するとお姉さんは真剣な目をして頷くと「チャレンジしてみました」と言った。チャレンジしたらしい。オレのコンタクト選びで、まさかチャレンジしてくるとは。なんて破天荒なんだ。

 

「前より良く見えますか?」と心配そうに聞かれ、オレは一応辺りを見回してから、「はい、よく見えます」と答えた。本当のところは別によくわからなかった。しかし「よかったです!」と喜ぶ彼女を見ていると、本当によく見えているような気がしてくるから、人間とは不思議なものだ。

 

最後に、コンタクトをつけた状態の視力を測って終わりになるそうだ。戦いを終えたオレは機械を覗き込んだ。熱気球が見える。あとは消化試合である。

 

と、思われた。しかし機械の向こうでお姉さんは首を捻っている。どうしたのだろうか。悩みがあるなら言ってほしい。少ないけど貯金もある。

 

お姉さんは素早く立ち上がり、「左目のレンズが合っていないようです。もう一度測りましょう」と言った。

 

その目は静かに燃えていた。強敵に出会ったことを喜んでいる、歴戦の戦士の目だった。「こちらへどうぞ」そう言って歩き出した彼女の小さい背中が頼もしかった。オレは「そうこなくてはな」と呟いて立ち上がった。