銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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人がいないときにも水が流れることがあります

トイレの小便器に「人がいないときにも水が流れることがあります」と書いてあった。

 

これは恐らく、「この小便器の近くに」という枕詞が省略されているものだ。「(人感センサーが届く範囲に)人がいないときにも水が流れることがあります」と。

 

だが、もしもこれが言葉通りの意味だったらかなり面白いことになる。一般的に言うところの「人がいないとき」だったとしたら。誰も周りにいないとき、つまり、「誰も見てないときにも水が流れることがあります」だったら、面白い。

 

そんな掲示をする意味がないからだ。だって誰も見てないんだから。誰も見てないなら、水が流れても、流れてないことと同じだ。

 

有名だが、「誰もいない森で大木が倒れたら、音はするか」という話がある。物理的には大木が倒れれば大きく空気は振動するだろう。しかしその振動を捉える鼓膜がないとき、「音」はしたのか?

 

現象が生ずるとき常に「観察者」が必要になる。物理学にも「観察者効果」ってのがあったような気がする。観察者がいるときといないときとで現象が変わってしまう。あまり詳しくないので調べてください。

 

少し話は変わるけども、オレはいつも「確率」について思っていることがある。

例えば、サイコロを一回振って、1が出る確率は1/6だ。二回連続で出る確率は1/36。三回なら1/216。四回目なら1/1296。かなり低い確率と言える。

だが、もしも四回目にサイコロが振られる直前に部屋に入ってきた人がいたとしたら、彼にとって、次のサイコロで1が出る確率は1/6だ。だから、1が出る確率は「それなりに高い」だろう。それまで三回サイコロで1が出るのを見てきた人にとっては1/1296の奇跡なのに。

誰もいないところでサイコロが100回連続で1が出ていたとしても、101回目に1が出る確率は、1/6である。

 

宇宙は英語でUniverseである。このUni-には「一つ」という意味がある。

それに対してMultiverseという考え方がある。Multi-は「複数の」である。

たまたま観察者が誕生した「宇宙」のみが「宇宙」として存在しているのであって、無数の「観察者がいなかった宇宙」もまた「存在した」あるいは「存在する」という考え方だ。

 

だからなんだという話かもしれないが、これは要するに「この宇宙に生まれた奇跡」などというものは無いのだ、ということだ。

 

地球はまるで用意されたかのように生存に適していて、このような環境が誕生する確率はそれこそ天文学的に低い、と言われている。

しかし、オレからすれば生存に適した環境が存在するのは「必然」である。観察者がいない宇宙など「存在しない」から。

 

そんなことを考えながら小便を終えたが、水は流れなかった。

人がいるときは流れろよ。