銀色の玉の中で息を潜めて丸まっている

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クーラーボックス

 エレベーターが4階で止まって、クーラーボックスを持った女性が一人乗り込んできた。402号室の高柳さんだ。

 

 オレは彼女の部屋の真上、502号室に住んでいるので、引っ越してきたときに挨拶に行ったのだ。高柳さんは「うちには赤ちゃんがいて、泣き声がうるさいかと思いますがよろしくお願いします」と本当に申し訳なさそうに言っていた。実際毎晩のように赤ん坊の泣き声が聞こえたが、そんなに気にはならなかった。

 

 エレベーターは、3階、2階と下がっていき、突然、ガクン、と止まった。階数表示は2階になっているが、おそらくここは2階と1階の間である。停電だろうか。しばらく待ってみるがエレベーターが動く気配はない。

 

 オレと高柳さんは顔を見合わせた。ここで気の利いたセリフの一つでも出ればな、と思ったが、オレの口から出たのは「止まりましたね」というなんとも間抜けな一言だった。高柳さんは「そうですね」と言った。

 

 突然オレは自分が昨日風呂に入っていないことを思い出した。コンビニでジュースでも買うかと思っただけなので、スウェットにTシャツだし、エレベーターが止まるには最悪のタイミングだった。オレは自分が不快な臭いを発していないだろうか、と思って軽く自分の臭いを嗅いだ。

 

 「あの、くさいですか」と突然高柳さんが言った。オレが?今オレが臭いって言われた?でも疑問形だったよな?オレは戸惑って「あ、いえ」と意味のわからない返事をしてしまった。

 

 「臭くないならいいんですけど。自分ではわからなくて。まだ大丈夫だと思っているんですが」と彼女は続けた。なんだ?なんの話をしてるんだろう。

 

「何が大丈夫なんですか」

 

「いえ、このクーラーボックスにね、お肉が入ってるんです。今スーパーで買ってきたんです。ほら、最近暖かくなってきたでしょう。だからお肉が腐ったりしてないかなってちょっと心配になったんです」

 

「はあ、なるほど」

 

 エレベーターが動く気配はなかった。オレは非常用ボタンを押してみた。外部に繋がるはずだったが、特に何も起こらなかった。「繋がりませんね」と高柳さんが心配そうに呟いた。「少し待ってみましょう」とオレは言った。

 

 待てよ。

 

 クーラーボックスにわざわざ買った肉を入れるだろうか。スーパーにクーラーボックスを持って行ったということか?何のために?

 

 そもそも、彼女は4階で乗ってきて、1階に降りる途中だったではないか。今スーパーで肉を買ったのなら、1階で乗ってくるはずだ。

 

 彼女は今、家から肉をクーラーボックスに入れて持ち出しているのだ。どこに持っていくんだ?なぜ嘘をついた?

 

 そのとき高柳さんがクーラーボックスをドサッと床に置いた。やけに重量感のある音。

 

「お肉、本当に腐ってないですかね。もう腐りかけてたんだと思うんです。でももうわたしにはわかんなくなっちゃったんです。動かなくなったんです。大丈夫でしょうか」

 

 そういえば、高柳さんの家から毎晩のように聞こえていた赤ん坊の泣き声はここ三日間ほど聞こえなかった。

 

「見てもらえませんか?」

 

 オレはボタンを連打していた。早くこの空間から出たかった。一度頭に取り付いた妄想はいくら否定しても離れなかった。

 

「動かなくなって、腐ってたんです」

 

 高柳さんがクーラーボックスを開こうとしていた。オレはボタンを連打していた。ボタンは嘲笑うように反応しなかった。